2011年11月22日火曜日

プリンストンでご近所の公共哲学について考える Vol.5

サンデル教授の白熱個人レッスン!
小川仁志



──『日本を再生!ご近所の公共哲学』の小川仁志先生は、現在プリンストン大学に赴任中ですが、かの地でついにマイケル・サンデル教授との対面を果たしました。
 書店さんの哲学の棚では、その著書が並べて売られる光景も見られるお二人ですが、現実においても待望の対話が実現したわけです。その模様、小川先生のブログでご紹介されているレポートを、先生のご厚意で当ブログでも転載させていただきます。サンデル教授の白熱個人レッスン、ご堪能ください。





サンデル教授とさしで対決!?

 『ハーバード白熱教室』でおなじみのマイケル・サンデル教授に会って来ました。1対1でゆっくり話をするのは、もちろん初めてです。今回は取材等ではなく、純粋にアカデミックな議論をしに行きました。

 グローバルに活動を展開しているサンデル教授は、とても忙しい方なのですが、私のために1時間以上も時間を割いて個人レッスンをしてくださいました。アポを取って訪ねてきた学生に「しばらく待ってて」といって、延長する白熱ぶり。もちろん、サンデル教授のレッスンは、半分くらいこっちがしゃべらされるわけですが。テーマはユニバーサルなヴァーチュー(「徳」のことです)について。

 実は私の今取り組んでいるテーマがユニバーサル・ヴァーチューズなのです。グローバル・ヴァーチューズといってもいいのですが、ユニバーサルのほうが、少し射程が長くなるように感じています。サンデル教授は同じ内容のことをユニバーサル・バリューズ(普遍的な価値)と呼んでいます。ただ、今回はお互いに「グローバルな徳」と表現を統一して話を進めました。ほぼ内容が重なるためです。

 つまり、今この世界には、戦争や飢餓、あるいは環境問題などのグローバルな問題を解決するために、共通にシェアすべき徳、すなわちグローバルな徳が求められています。にもかかわらず、それがいったい何を指すのか、そしてどうすれば育んでいけるのか、十分な議論がなされていないのです。

 これについては、もともとは師匠であるスティーヴン・マセド教授の『リベラル・ヴァーチューズ(リベラルな徳)』をグローバルな次元で展開しようと思っていたのですが、やはり共同体の意義を重視する私としては、リベラルのマセド教授のほかに、コミュニタリアンの意見も聞いてみたいという思いがありました。そこで、コミュニタリアンの立場から、グローバルな徳に言及する稀有な論者!?ともいえるサンデル教授に教えを請いに行ったのです。ちなみに彼は閉鎖的なコミュニタリアンと誤解されることを嫌い、自分のことを共和主義者だともいいますが、開かれたコミュニタリアンという意味では間違いなくコミュニタリアンです。今日も議論の冒頭でそれを確認しておきました。

コミュニタリアンはグローバルたりえるか?

 それにしても、そもそも共同体における価値を重視するコミュニタリアンが、はたしてグローバルな徳を肯定しうるのでしょうか? コスモポリタンのように、人間の価値を最重要視するなら、共同体の価値は副次的なものとなります。ですから、コスモポリタンは、国家の垣根を越えて救いの手を差し伸べることを正当化できるのです。

 これに関するサンデル教授の答えはこうです。彼は、コミュニタリアンであっても、ユニバーサリズム(普遍主義)とは両立可能だといいます。つまり、困っている人を助けるという共同体の価値や徳は、共同体の垣根を越えて妥当するということです。問題は、それが自分たちの共同体の存立を脅かすような場合にも妥当するかどうかです。

 サンデル教授はいつものように例を出しました。飢えている家族がパン一つしか有していない時、同じく飢えている外部の人にあげるかどうかを、コイントスで決めるべきだろうかと。そして、「そんな父親を君は尊敬できるか?」と詰め寄られました。コスモポリタンならコイントスで決めるかもしれません。人間は皆同じ価値を有しているのですから。しかし、コミュニタリアンは家族を優先します。なぜなら家族の成員同士には互いにオブリゲーション(負っているもの、責務)があるからです。現にサンデル教授はそういっていました。

 これがコスモポリタンとコミュニタリアンの違いだといいます。コスモポリタンは、抽象的な人間を想定して議論している点に問題があるのです。アフリカで飢えている「誰か」は、私たちの家族とは異なる抽象的な人物なのです。ところが、私の立場はサンデル教授とは異なります。同じコミュニタリアンでも、私はこの場合コイントスをするべきだと考えています。

 たとえば、自分の父親が、災害時に食料を配給する職についていたとしましょう。にもかかわらず、その父親が、困っている他人を見捨てて、自分の子どものためにその食料を家に持ち帰ったとしたらどうでしょうか? そんな父親を尊敬できますか? サンデル教授は、私の立場には新しいカテゴリーが必要だといっていました。私もそう思います。いわば「コスモポリタン・コミュニタリアニズム」とでもいいましょうか。サンデル教授はこの名称に受けていましたが(なお、これをひっくり返して「コミュニタリアン・コスモポリタニズム」について論じている人はいます)。

グローバルな徳を共有するために

 私の立場と単なるコスモポリタンとどこが違うかといいますと、グローバルな徳が育まれるプロセスが異なるのです。コミュニタリアニズムを前提に、グローバルな徳を論じる私やサンデル教授の場合、コミュニティにおいて徳が育まれるプロセスを重視します。つまり、グローバルな徳は、予め用意されていて押しつけるものではなく、育む対象なのです。

 では、どのような徳をどう育めばいいのでしょうか? サンデル教授は、グローバルな徳のカタログを列挙するのは難しいといっていました。そこで、私が特に重要と考える、「寛容」と「連帯」はどうかと尋ねると、それはいいと賛成してくれました。ただし、たとえば寛容とは何かが問題になるがという留保付きで。そこでまたサンデル教授の問いかけが始まったのです。

 「どうすれば人種差別的なヘイトスピーチに寛容でいられるのか?」と。私は次のように答えました。「相手も寛容であるなら、私も寛容でいられます。そうすれば、論理的には相手はヘイトスピーチを差し控えることになるからです」と。サンデル教授はまた大笑いしてくれました。そして、「ムハンマド風刺画事件(デンマークのタブロイド紙がイスラームで禁じられているムハンマドの顔を描いた風刺画を掲載した事件)」の例を引いて原理は同じだというと、たしかに理屈は同じだと賛同してくれました。実際には、この場合イスラーム圏の人たちに寛容を要求するのは難しいわけですが。

 そこで、どうすれば寛容を、すなわちグローバルな徳を育むことができるのかが問われてきます。異なる文化をもつ異なる共同体で育つ人たちが、それでも同じ徳を抱くようにするためにはどうすればいいのか。私自身は共通の経験が重要だと考えています。同じ人間ですから、同じ徳を育むには、同じ経験をすればいいからです。サンデル教授の考えも基本的には同じです。彼は、家族や学校だけでなく、社会におけるモラル教育が大事だといっていました。それをシビック・プロジェクトと呼んでいました。

 しかし、国家の垣根を越えてこれを行うためには、グローバルな教育が不可欠になってきます。市民を他の文化に晒すこと。しかも教育という明確な形で。これがサンデル教授の意見です。その担い手としては、もちろん国連や大学が考えられます。サンデル教授が強調していたのは、そのための機関の創設です。ネットワークでもいいのですが、新たな制度が必要だと強調します。そして、サンデル教授が実践している「グローバル・クラス(世界の大学などを中継でつないで議論する試み)」も、そうしたグローバルな徳を育むための方法の一つだといっていました。実際、留学生の交換を支援しているNGOや財団もあります。そういう動きを加速させ、組織化していく必要性があるということでしょう。

 最後にサンデル教授は、来年新著『What Money Can’t Buy(お金で買えないもの)』の刊行を記念して講義にいった際には、君を当てるから覚悟しておくようにといっていました。この本の中でも、今日の話のエッセンスに言及しているそうです。

 今回話をしてみて、サンデル教授と私の方向性がほぼ一致していることが確認できたと同時に、少なからず私の議論の独自性も明らかになりました。ぜひそのへんをまとめて、帰国後発表したいと思っています。サンデル教授、白熱した個人レッスンをありがとうございました!